唯一無二の煌めきを求めて。

努力家!笑顔最強!の自担が大好きな掛け持ちオタクの備忘録。

嵐と共に過ごした青春の日々。

 

嵐への思いを書き連ねたくて、数か月前から書き出そうと思ってたのに、気づいたら年末でした。

 

間に合うのか、分かんないけれど。

嵐への手紙を記そうと思います。

今回はその序章。嵐と共に生きた11年の思い出。

 

時間も無いから、話が行ったり来たりするかもしれないけれど。許して←

 

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 私が嵐に出会ったのは、幼稚園の頃です。

でも、その時は嵐が何者か、どんな人か、全く知りませんでした。

幼稚園の運動会でHappinessがかかってた記憶のみです。

 

私が嵐のファンになったのは小学2年生の頃です。

といっても明確にきっかけを覚えてるわけじゃなく、おそらく、ですが。

でもその頃習っていたダンスやピアノの発表会に嵐の曲が選ばれて異様にはりきってたことは覚えてます。

今日という日までに様々なことはあったけれど、11年間ずっと嵐と共に生きてきました。

 

12/31を迎えるにあたって、”最後”という言葉はあまり使いたくなくて。

なんていうべきなのかなあ。一つの区切り、って言おう。

 

一つの区切りを迎えるから、私の11年間も軽く振り返らせてください。

 

小学生の頃。

本当に嵐が大好きで、クラスの全員が認知してて、お楽しみ会があるたびに友達と嵐の曲を踊って。お昼の放送で嵐の曲がかかるときにはいつも食べるのが遅い私が死ぬほど給食をかきこんで、スピーカーの前にダッシュして。

なんなら放送委員になって嵐の曲かけまくって。

部屋の中は新聞の切り抜きやポスターで壁一面埋まってて。

友達とファイトソング歌いながら廊下歩いたり。

家族で空港に嵐ジェットを見に行ったり。

電気屋に行くたびに日立のパンフレットを片っ端から持って帰ったり。

小4の頃に書いた将来の夢。

この後すぐに現実を見ましたが、恥ずかしながらそこに書かれていたのは「櫻井翔くんみたいな勉強もできるアイドルになる。」でした。

 

この時はいろいろ制限されてたから、買ってもらえるのは年一のアルバムのみ。

ファンクラブも入れてもらえない、そんな状況でした。

あ、一応母も嵐担です。

今となってはその状況「なにそれ、つら」って思うけれど、当時の私にはそれが当たり前でした。嵐には会えないものとずっとずっと思っていました。

でも、小学6年生の時、大阪から引っ越すこともあって、その時だけグッズのプレ販に連れてってくれました。

 

中学生の頃。

私は新しくジャニーズWESTに出会いました。

そこからいわゆる冷め期に突入しました。

大きな理由は、私の知らない10年間です。

自分が好きになる前の嵐をたくさん知りたいと思って昔の曲を聴いたり、調べたりしました。

でも、どうしても変わらない事実は、私が生まれる前から嵐は存在していた、ということで。どう頑張ったって、デビュー当時から応援することは私には出来なかったと思うと少し悲しくて。

そんなときに気になって覚えてた人のデビューを知り、「今度こそ、デビューからずっとずっと応援し続けたい」という思いを持ちました。

もう同じ後悔をしないよう、WESTにいろいろ力を入れてきました。

部活も忙しくなって、アルバムもなかなかちゃんと聴けなくて、ファンクラブはいまだ入れてもらえず、しまいには中三の頃に開設されたジャニーズWESTのファンクラブに親を説得して入れてもらいました。

 

たまに父に「〇〇はもう嵐好きじゃないでしょ」と言われることがありました。

でもそう言われるたびに怒ってました。

優先順位は変わってしまったのかもしれない、それでも、私の生活の基盤に嵐は変わらずにずっといました。大好きに変わりはありませんでした。

 

そしてやっと、中3の冬に母がファンクラブに入りました。

中学校の卒業式の時、親からの手紙には「ジャニーズWESTのライブに連れて行ってくれてありがとう。いつか嵐のライブに行こうね。」と書いてありました。

その”いつか”は思ったよりもはやく、そして一度しか訪れませんでした。

 

高校生の頃。

やっと。やっと。嵐に会うことが出来ました。

ワクワク學校2017。

その距離は決して近いものでは無かったけれど、嵐がこの世界に実在していることをものすごく実感しました。

そして運に恵まれワクワク學校2018も登校することができました。

Untitledはさすがに当たりませんでした。

いつになったら歌って踊る嵐に会えるんだろう、5年くらいはかかるかな、なんてその時は考えていました。

そんな中発表された5×20。

きっと全嵐ファンが思ったでしょう。

””なんとしても行きたい”” と。

もちろんその一人です。母も。

でもまあ、そんな簡単には当たりません。

友達が参戦している様子を見て、ひたすらに羨ましく感じていました。

そんな中発表されたとてつもない数の追加公演。

「ファンのみんなが来れるように。」

ただでさえ忙しい嵐が、その一心で、会場の確保だって難しいはずなのに、私たちのために、会えるチャンスをまた用意してくれました。

ここで、私もファンクラブにようやく入れてもらえました。

というか入らなきゃ、応募できなかった。

 

そしてその後発表された活動休止。

忘れもしない。買い物帰りに車の中で知って。

状況がつかめなくて放心状態で。家に帰ってしばらくしてから涙があふれてきました。

次の日の学校も頭の中は嵐の事しか考えてませんでした。

 

 

 5×20、追加公演の年は私が高3になる年でした。

だから、行けるとしても春先までしかなくて。いちかばちか、応募しました。

私が友達と応募した大阪公演はやっぱり落選。

当落発表の日。母のもとに来たメール。私が学校から帰ってくるまで待ってくれていました。そして二人であまり期待はせず、でも行きたいなと思いながら開いたメール。

そこには当選の文字。私はそりゃもちろん、「本当に⁉」を連呼しながら家を走り回ってましたが、あまりいつも感情を出さない母が、スマホを持つ手を震わせながら、家を無駄に歩き回って喜んでました。それがすごく嬉しかった。

当てたのは母だけど。やっと。やっと。母を嵐のライブに連れて行ける。

中三の時に記された”いつか”は5年もせずに訪れました。

でもそれと同時にこれは活動休止前、最後となってしまう気がしていました。

最初で最後かもしれない。

今後あったとしても、もう私は1人暮らしをはじめてしまうから。

同じ家から一緒に嵐に会いに行くのはこれが正真正銘の最後でした。

 

ライブの3日前も、ライブの次の日も、私は学校に自習しに行きました。

正直ライブの次の日は休んでよかったなあと思いましたが笑

友達が「来なくてもいいのに!!よく来たね!!頑張ったね!!」って言ってくれたのが少し救いでした。

ってそれはどうでもよくて。

 

やっと嵐のライブに行けて。肉眼でもギリ見える席で。

銀テープなんて届かない席だったのに、優しいファンの方が帰り際に銀テープをくださって。

なによりも嵐の偉大さと、嵐への感謝と、愛があふれ出して止まりませんでした。

幸せとしかいいようがありませんでした。

 

それからは来たる2020.12.31までの準備期間です。

また会える機会はあるかなあ、そう思っていた矢先の新型コロナ。

新国立競技場でのコンサートは中止。

なんとか配信という形で実現できましたが。

やっぱりファンのみんなの声を届けて、ファンのみんなが作り出したペンライトの海を見せてあげたかった。

それは今日のライブも同じ気持ちで。

たくさん準備さしてくれて、歌もダンスもコールも送りました。

だけどやっぱり会場を埋めてあげたかった。

でもこればかりは誰も悪くない。だからこそ悔しい。

その気持ちはぐっと我慢して。ただひたすらに、ライブを楽しもうと思います。

 

嵐の姿を目に焼き付けて。2020年を締めくくって。

 

 

 

2021年を迎えよう。

 

 

 

素敵な青春の日々をありがとう。